ケ ンブリッジ大学は31のコレッジの集合体であるが, 1546年にヘンリー8世によって創立されたトリニティーコレッジ (Trinity college) はその中で最も有名なコレッジの一つだろう。トリニティーの財産は伝説的であると形容される。たとえば,ケンブリッジからオックスフォー ドまで約80マイル(130km)の間,トリニティーの領地をすべて通って旅することができるとさえ言われている。具体的には,トリニティーの資産はおよそ15億ポンド(約3000億円)であると推定されている。この数値は,ケム川のパンティングのガイドブックに書かれてあったもので,どこまで本当かわか らないが,資産が多いことには間違いないだろう。なお,英国で最も資産が多い団体はNational Trust (英国の史跡・自然美を保護するための団体)で,そのつぎがトリニティーコレッジだとも言われている。一方,個人の資産では,ハリーポッターの 作者である J.K. ローリングがエリザベス女王を抜いたことが話題になっていた。

トリニティーコレッジの最も有名な卒業生といえば,科学者のアイザック・ニュートンと詩人のバイロンであろう。そこで今回は,前者のニュートンについてお話したい。

Year 6 の長男の literacy の宿題で,「適当な人を選んでその人の伝記を書くための情報を集めよ」,という課題が出された。まず,誰の伝記を書けばよいか 悩んだのだが,せっかくケンブリッジに住んでいるのだから,ニュートンの伝記にしようということになった。私もニュートンについては断片的にいくつかのこ とを知っていたが,息子と二人でインターネットを利用してニュートンについて調べてみることにした。したがって,今回のケンブリッジだよりは,ニュートン について詳しい方には,当たり前のお話になってしまう。また,和文でもニュートンの伝記が多数出版されているようなので,興味のある方は,そちらを読んだ 方が参考になるだろう。

ニュートンは1642年のクリスマスの日(ただし,現在のグレゴリオ暦(太陽暦)でいうと,1643年1月4日に当たる),イングランド中部のリンカーン州の Woolsthorpe というところの荘園で生まれた。
1642年はガリレオ・ガリレイ(伊)が死んだ年であり,またちょうど300年後の1942年にステファン・ホーキング博士(ケンブリッジ大)が誕生している。

ニュートンの父は土地や動物をたくさん所有していて裕福だったが,教育はまったく受けておらず,自分自身の名前さえ書けなかったそうだ。アイザック・ニュートンという,ニュートンと同じ名前をもつ父は,彼が生まれる3ヶ月前に亡くなっている。母親はニュートンが2 歳のとき再婚し,その後のニュートンの少年時代は不幸だったようだ。彼は祖父母に引き取られるが,基本的に孤児として育てられたそうだ。ニュートンが10 歳のとき,義父が亡くなったので,彼は,母,祖母,一人の異母兄弟,二人の異母姉妹と一緒に暮らすことになった。その後すぐに,Granthan のグラ マースクール(パブリックスクールと並ぶ大学進学コースの公立中等学校)に入学するが,彼の成績票には「なまけもので,怠慢」と書かれていた。しかたな く,彼の母親は,彼を自分の大農園(estate)を管理させようとするが,ニュートンはまったく興味を示さなかった。

そこで,ニュートンのおじである William Ayscough はニュートンを大学に入学させようと考えた。そして,17歳のとき(1660年)にニュートンは Granthan のグラマースクールに戻 ることを許され,この学校の校長の家に下宿した。その校長はニュートンに個人指導を行い,そのため今回は前回と違ってニュートンは学問に非常に興味を示す ようになった。そして,ニュートンは1661年6月5日にトリニティーコレッジに “sizar” として入学した。Sizar とは,他の学生の召使として働くことで,コレッジでかかるお金を免除(減額)してもらう学生のことである。しかし,ニュートンの遠縁に当たる人がトリニ ティーコレッジのフェロー(教官)をしていたので,その人がニューロンのパトロンになっていたかもしれないという説もある。

トリニティーでのニュートンの目的は,法律の学位をとることであった。しかし,彼はその他にも,デカルトやホッ ブスの哲学,ガリレオやコペルニクスの天文学,ケプラーの光学について学び,1664年に “Certain Philosophical Questions” (原題はラテン語)をまとめた。また,ニュートンの数学の資質は,1663年に初代 Lucasian chair としてIsaac Barrow がケンブリッジに来たときに始まる。その後,ニュートンは1665年の4月に学位を授与される。しかし,その夏,英国ではペスト(the plague) が大流行し,ケンブリッジ大学は閉鎖されてしまい,ニュートンは故郷のリンカーン州に戻ることになる。そこで,彼は2年間過ごしたが,20代前半の,この2年間の休暇は彼に大きな影響を与えた。その間に彼は,数学,光学,物理学,そして天文学で驚異的な進歩を遂げる。

ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て「万有引力 (universal gravitation) 」 (逆2乗の法則) を発見した,と子供向けの世界偉人伝には書いてあるが(大事なことは,その後に,月はなぜリンゴのように落ちてこないのだろうか? と いう点なのだが),このリンゴの木は故郷のものであったようだ(もちろんこのリンゴのエピソードの信憑性は疑わしいが)。いま,ケンブリッジのトリニ ティーコレッジの門の外側に,このリンゴの木の末裔(?)が植えられているが,そこには何も看板も掲げておらず(もちろん,ニュートンのリンゴまんじゅう など土産物屋で売っていない),ほとんどの人はその前を素通りしてしまう。

さて,universal gravitation を 「万有引力」 と訳した先人もすばらしいと思う (不勉強でどなたが訳したのか,知らないのだが)。普遍引力,万能引力,宇宙引力などと訳すと,なんとなく違う意味になってしまう。以前,カタカナ英語について批判したが,最近,気に入らないカタカナ英語は 「マニフェスト」 である。 Manifest はもともと英国議会で使われていたようだが,「政権公約」 ではいけないのだろうか。日本の政治家は,カタカナ英語を使うことによって,秋 の選挙に備えようとしている。

ニュートンのリンゴの木の末裔の前で

2年間の休暇の間に,彼は「微分積分学」の基礎を築き上げ,“method of fluxions” と命名した。これは,ライプニッツによって独立に微分積分学が発見される数年前のことだった。ニュートンはその結果をラテン語で “De Methodis Serierum et Fluxionum” として1671年にまとめるが,彼はこれを出版しなかったので,この本が日の目を見るのは彼の死後,1736年に英語翻訳本ができるのを待たなければならなかった。

ペスト大流行の2年後の1667年にケンブリッジ大学は再開され,1668年にニュートンはフェローシップ(教官)の資格を得る。これにより,彼は Fellow’s Table (以前述べたハイテーブルのこと)で食事を取ることを許された。さらに,1669年に Barrow は Lucasian chair の座を退き,ニュートンにその席をゆずった。ニュートンがわずか27歳のときであった。ここで,Lucasian chair (of mathematics) とは,1663年に Henry Lucas がケンブリッジ大学に贈って制定されたもので,現在まで17名に授与されている。最近では 1980年にステファン・ホーキング博士に授与された。

Lucasian chair となってから,ニュートンは,まず光学において,プリズムの分光を用いて,白色光はすべての光線の混合であることを明らかにした。また,反射望 遠鏡を提案し,自ら試作した。ニュートンの最も偉大な業績は,物理学と天体学であろう,その中でも「万有引力の理論」,「ニュートンの運動方程式」は,近代科学の最も重要な成果であり,それらの集大成として,1687年に彼は,「プリンキピア (Philosophiae naturalis proncipia mathematica:自然哲学の数学的諸原理)」 を出版した。

驚くべきことに,ニュートンは錬金術 (alchemy) にも興味をもっていた。錬金術実験で用いた化学物質の毒のため,そして研究へフラストレーションなどのため,彼は神経衰弱をわずらってしまう。そし て,1693年,彼は研究から引退することを決心する。50歳のときだった。ニュートンは,ケンブリッジを離れ,ロンドンで政府の役職につく決心をする。 そして,1699年に造幣局長官となるが,1701年まで彼はケンブリッジでの役職を辞職しなかったそうだ。造幣局長として,そして大農園からの収入で, 彼は相当の大金持ちになったようだ。

1703年,彼は英国王立協会 (Royal Society : RC) の会長に選出され,1727年に84歳で死ぬまで,会長に再選されつづけた。1705年には,アン女王から「ナイト」の称号を授与されたが,科学者でその仕事に対してこの称号が授与されたのは,彼が初めてだった。84歳という,当時としては非常に長命だったニュートンは,ウェストミンスター寺院に 眠っている。

話は変わるが,チャールズ皇太子もトリニティーコレッジの卒業生である。彼がトリニティーに在学中,どこに行くにもガードマンと一緒だったようだ。もちろん,講義を受けるときも。そして,期末試験もガードマンと一緒に受けたところ,チャールズ皇太子よりガードマン の方がよい成績をとってしまったそうだ。これも,ケム川のパンティングのとき聞いた小話である。