ケンブリッジで「大学はどこですか?」と旅行者に聞かれても,地元の人は困っしまってさまざまな方向を指差すで しょう。というのが観光ガイドブックに書いてある小話である。なぜならば,ケンブリッジ大学は31校あるコレッジ(college)の集合体だからであ る。したがって,ケンブリッジ大学キャンパスというものは存在しない。11,000人の学部学生(なお,大学院生は4,500人いて,全学生15,500 人のうち15%は英国以外からの学生である)は,いずれかのコレッジに所属している。各コレッジは,ケンブリッジ大学の最低入学資格条件を満たすものの中 から独自の基準で入学者を選ぶ。そして,学生たちは自分の専攻をつぎに示す学位コース(これは Tripos という名で呼ばれる)の中から選ぶ。コレッジと 学位コースは縦糸と横糸のような関係で,学生の教育を担当している。これはとてもうらやましいシステムであり,これについては,別の機会に紹介したい。
学位コースは人文系(art)と科学系(science)に分類される。せっかくだから,2004年度入学希望者用のガイドブック(これは7月初旬に開かれたケンブリッジ大学オープンデーのときに配布された)に記載されている学位コースを全部紹介しよう。

人文系は,アングロサクソン・古代ノルウェー・ケルト (Anglo-Saxon, Norse, and Celtic),考古学・文化人類学(Archaeology and Anthropology),建築学(Architecture),古典文学(Classics),経済学(Economics),教育学(Education Studies),英語(English),地理学(Geography),史学(History),芸術史(History of Arts),国土経済学(Land Economy),法律(Law),言語学(Linguistics),経営学(Management Studies),現代・中世言語(Modern and Medieval Languages),音楽(Music),東洋研究(Oriental Studies),哲学(Philosophy),社会科学(Social and Political Sciences),神学・宗教学(Theology and Religious Studies)から成る。

一方,科学系は,化学工学(Chemical Engineering),コンピュータ科学(Computer Science),工学(Engineering),製造工学(Manufacturing Engineering),数学(Mathematics),医学(Medicine),自然科学(Natural Sciences),獣医学(Veterinary Medicine)から成る。

理科系の立場からこれらの分類を眺めると,化学工学が工学から独立している点と建築学が人文系に分類されている 点が興味深い。また,学問の分類は非常にオーソドックスであり,どこかの国の大学のように学部名や学科名を聞いただけでは,いったいそこで何を勉強してき たのかわからないということはない。

私は,科学の中の工学部(Engineering Department)に所属している。工学部は,つぎの6つのdivisionから構成されている。
A:エネルギー・流体・機械・ターボ機械(Energy, Fluid, Mechanics & Turbomachinery)
B:電気(Electrical)
C:デザイン・材料・機械(Design, Materials, Mechanics)
D:土木・構造・環境・石油(Civil, Structural, Environmental & Petroleum)
E:製造・管理(Manufacturing & Management)
F:情報(Information)
私は,この中の情報に所属しており,これはさらに,信号処理(Signal Processing),通信(Communication),機械知能(Machine Intelligence),制御(Control)の4つの研究グループで構成される。ようやくたどり着いたが,私は制御研究室の客員研究員(Visiting Scholar)という立場でケンブリッジ大学に10ヶ月滞在している。残念ながら,私はコレッジには所属していないので,これまでコレッジの行事にはほとんど参加する機会がなかった。

工学部での私の受け入れ教授は,書類上はProf Keith Glover 先生なのだが,彼は工学部長になってしまって非常に多忙なので,実質的には制御グループ長の Dr Jan Maciejowski 先生が代わりに面倒を見てくれている。Jan は1347年にケンブリッジで33番目に創立された伝統あるPembroke collegeに所属している。彼が Pembroke college の “Parlour Evening” というディナーにわれわれ夫婦を招待してくれた。私は,一度コレッジの行事に参加してみたかったので,何も考えずに「ありがとうございます」と返事してし まったが,招待されて当日までの約1ヶ月間,われわれ夫婦は初めてのことなのでいろいろ悩むことになった。

悩みの一つ目のキーワードは “High table” だった。これは辞書によると,「High table:英国で大学の食堂の教官用食卓(一段高くなっている)」 と書いてある。コレッジのディナーに招待されることを,High table に招待される(言い方が見違っているかもしれないが)と表現することもあるようだ。ハリーポッターのホグワーツの食堂でも,生徒たちは長いテー ブルで食事をしているが,教授たちは前の方に並んで座っており,それを High table というようである。コレッジの High table に招待されることは,とても名誉なことのようだ。

二番目のキーワードが “Dress code” であった。これも辞書を引くと,「Dress code:(特定の場や集団での)服装の規定」 と書いてある。まわりに人に聞いた所,High tableで食事をするときには,コレッジの教員(Fellow と呼ばれる)はガウンを羽織り,ゲストも正装をすることが多いそうだ。正装とはタキシード と蝶ネクタイのこともあれば,通常のスーツ上下にネクタイのこともある。すなわち,コレッジと招待されたディナーの種類によって dress code は異なるそうだ。著名な教授のケンブリッジ滞在紀を読んだ家内は,その教授はタキシードを新調したと書いてあったと言った。男性がタキシードだっ たら女性はパーティドレスを着るのだろうか? 6月は大学の卒業式シーズンで,街にいけばパーティドレスをたくさん売っていたので,家内はちょっと嬉しそ うに試着に出かけていった。これは大変なことだ,ディナーに行くだけで大変な物入りだ。

結局,服装については Jan に聞いた所,Parlour Evening は気軽でフレンドリーなディナーなので,ゲストはスーツにネクタイで十分であり,夫人もこざっぱりした服装であればまったく問題ないと言わ れ,ほっとした。それでも,ちゃんとしたスーツ上下と家内の洋服をケンブリッジに持参しなかったので,慌てて EMS 便で日本から送ってもらった。

3番目のキーワードが “Baby sitter” である。ディナーに夫婦で行くのだから,子供二人の面倒を見るベビーシッターを頼まなければいけない。よく考えたら,日本では子供が生まれてから,夜,夫 婦二人で外出したことはなかった。しかし,英国では夫婦で一つの単位なので,ベビーシッターが当たり前であり,ベビーシッターは女子学生のもっともポピュ ラーなアルバイトである。親切なことに,Jan は娘さんの友人にベビーシッターをお願いしてくれた。日本ではもちろんベビーシッターなど頼んだことがない ので,子供たちにとっても初めての経験だった。ちなみに,ベビーシッターの時給は3~8ポンドで通常6ポンド(1200円)くらいだそうだ。

そうこうしているうちに,7月11日のディナー当日を迎えた。われわれ夫婦は Jan にすべて頼りきりで,当日も Jan 夫婦が自宅まで車で迎えに来てくれた。そのちょっと前に,ベビーシッターの Jess が到着し,不安そうな子供たちをあとに Pembroke college に向かった。

Fellow である Jan は教官室でガウンに着替えた。ガウンにスカーレットの飾りを付けるかどうかは,日に よって決まっているそうで,手帳を見ながら今日は付けない日だといって飾りをはずしていた。まるで,大安とか仏滅とかお日柄を手帳で調べているようでおも しろかった。

ディナーはまず庭での食前酒から始まった。どのコレッジもそうだが,Pembroke の庭はとても美しい。それ ぞれの Fellow がゲスト夫婦を一組招待しているようで,ディナーの参加者は43名だった。Fellow がみなガウンを羽織っているのを見ただけで, 「ああ,これがケンブリッジだ,参加してよかった」と感じた。定刻の午後7時半になり,場所をダイニングルームに移した。座席は結婚式のようにすべて決 まっていた。われわれ夫婦は離れて座り,私の横は Jan の奥さん,家内の横は Jan が座るように席が決められていた。万全の体制である。銅鑼の音が鳴った のを合図に,コレッジのマスターがラテン語でお祈りをして,食事が始まった。食事は,魚,肉,デザートのフルコースだった。まずくはなかったが感動はしなかった。ただで食べているのだから文句は言えず,“Very good” と言っておいたが,英国の料理に多くのものを求めてはいけない。英会話が堪能でない私にとって,食事をしながら会話をするというのは,なかなか重労働だっ た。食事を始めて約2時間後,再び銅鑼がなり,食事が終わった。

その後,応接室のような調度品のすばらしい部屋に移動し,食後のコーヒー,スウィート,フルーツ,ワインなどを 飲み,そして食べながら Parlour Evening は続いた。移動した場所でも,席は決まっており,先ほどとは違う人と会話できるように工夫されていた。物理学者,精神科医,e-commerce,特許関係の人など,さまざまな人が参加していた。コレッジの素晴らしい所は,このようにいろいろな分野の教授が一緒に過ごしている点に ある。異分野の人と議論できる環境になっている。「ケンブリッジだよりNo.1」 で紹介した common room と同じ環境だ。日本と決定的に違う点がここにある。日本では,学会の細分化や,学部や学科の自治などに見られるように,同じ分野の小さな集団がた くさんでき,その中だけでムラ社会を形成している。異分野交流の重要性が叫ばれているが,いざ実行しようと思うと,なかなか難しい。まずは,大学内で異分 野交流を始めるべきだと思う。それも,いきなり学部を超えたプロジェクトを立ち上げたり,かしこまった会議をするよりは,Parlour Evening のように一緒に食事をしたり,お酒を飲んだりする機会を設けるべきだ。学内の交流が盛んでないというよりは,学内の交流を促すシステムがで きていないことが多い。

あるケンブリッジ大の教授は日本のプリンセス(たぶん雅子妃のことだと思うのだが)が英国留学していたときの知 り合いで,彼女の結婚式に招待されたなど,普段聞けないような話を聞くことができた。陳腐な表現だが,Parlour Evening はまるでイギリス映画のひとコマのようだった。もしかしたらこの中にノーベル賞候補者もいるかも知れない。ミーハーな私はデジカメを持参 し,写真を撮ろうと思っていたのだが,雰囲気に圧倒されてしまい,とうとう写真を撮ることができなかった。今回の写真は,後日撮った Pembroke college の Dining room の写真である。真ん中あたりで横向きに並んでいるのが High table で,後ろの方に縦長に並んでテーブルが学生用である。

11時半になり,ベビーシッターとの約束の時間もあるので,われわれは一足先に帰ったが,まだまだ Parlour Evening は続いていた。帰宅したら,子供たちはもちろん眠っており,Jess が「楽しくやっていましたよ」と言って笑顔で迎えてくれた。英国に来て 子供たちは新しい体験ばかりしているが,また今晩新しい体験が一つ増えた。大変なことだと思うが,よい経験だ。もちろん,われわれも日本では経験できない素晴らしい晩を過ごすことができ,Jan 夫妻に感謝している。

日本だと,お父さんの会社の世界とお母さんの主婦の世界は別々で,家庭外で共通の時間を過ごすことは少ない。そ れに対して,英国では夫婦単位で社会生活を送っている。それぞれ伝統があり,一概にどちらがよいとは判断できない。「日本では主婦が社会に出て行こうとし ても,今晩のような機会がないのよ」,と家内が興奮してしゃべっていた。普段はベッドに入れば5分以内で寝てしまう私も,その夜は興奮してなかなか寝付か れなかった。