引越ししたことを実感する瞬間というのは,人によってまちまちだろう。私の場合,引越しして床屋を変えたとき,「ああ, 違う土地に引っ越してきたのだなあ」と感じる。床屋を変えるというのは,私にとっては大事業なのだ。13年前,茅ヶ崎から宇都宮に引越ししてきたときも, 半年くらいは馴染みの床屋に行くためにわざわざ茅ヶ崎まで帰っていたものだった。今回の引越しは,日本の宇都宮から英国のケンブリッジである。簡単に宇都宮に帰って,いつもの床屋に行くことはできない。

3月に引越しする直前に,宇都宮の床屋に行き髪を短く切ってもらい,しばらくの間は床屋に行かなくてもよいようにしておいた。しかし,ケンブリッジについて2ヶ月もたつと,髪の毛がのびてしまい,5月中旬についに床屋に行く決心をした。

どの床屋に行ったらよいのだろうか,そして床屋ではどのように髪の毛の切り方を英語で話したらよいのだろうか,さらに料金はどうなっているのだろうか,いろいろな疑問と不安があった。残念ながら,「地球の暮らし方(イギリス)」にも床屋のことは記述されていなかった。

さて,2003年3月29日にわれわれ家族が不安いっぱいで降り立ったヒースロー空港で,「ケンブ リッジに行かれるのですか?」と声をかけてきた日本人女性がいた。その方は,偶然同じ飛行機で成田から到着したところだった。われわれと同じようにケンブ リッジに長期滞在するご家族の面倒を見るようにと頼まれていて,そのご家族とわれわれとを勘違いして声をかけられたのだった。その女性は K さんといって, 英国人の方と結婚してケンブリッジに在住されており,日本に里帰りされたところだった。K さんは親切にも住所と電話番号とメールアドレスを教えてくれて, 何か困ったことがあったら連絡してくださいと言ってくれた。ケンブリッジ滞在では,たくさんの人とのラッキーな出会いがあったが,Kさんとの出会いがその幸運の始まりだった。

その後,3月下旬から4月上旬までの間,われわれがケンブリッジで右も左もわからないときに,何度 もわが家に来てくださり,いっしょに車でスーパーまで連れて行ってくださったり(ケンブリッジではちょっと高級なスーパーである Waitrose を教えて いただいた),子供たちの小学校のことを心配してくださったり,車の車検(こちらでは MOT という)について教えてくださったり,小切手帳の使い方を教え てくださったりと大変お世話になった。ケンブリッジでの生活の立ち上げ時期には,ケンブリッジ日本人会主宰の珠子さん(わが家の大家さんでもあるのだが) と,この K さんの親切な手助けのおかげで,いろいろなことがスムースに進んだ。この時期,珠子さんとKさんの電話番号は,わが家の命綱だった。

K さんは,英国で日本企業の現地駐在員のお世話をする仕事をされていたことがあったそうだ。そのと きに,家族連れで赴任されたご家族の大変さを身近で見ていたので,われわれのように非常に頼りない一家を見ると,手助けをしなければと思うようになったそ うだ(もちろん,K さんがこのようにストレートに言ったわけではないのだが)。このご親切を大変ありがたく思うのと同時に,いつかわれわれも他の人にこのようなことができればと思った。

さて,床屋についても K さんに教えてもらおうと,家内に頼んで電話でいろいろ聞いてもらった。英国 人は髪の毛を切るのが好きなのか,ケンブリッジにはたくさんの床屋がある。はやっている店も,そうでない店もある。K さんのお話によると,子供の小学校の すぐそばの Barber “Peppy’s” にご主人が行ったことがあったが,よかったそうであった。なお,peppy とは「元気いっぱいの,張り切った」という意味の口語である。まず,これで行く店が決まった。

つぎに,髪の毛の刈り方をどのように英語で説明すればよいかについても教えてもらった。こちらでは,日本人のように長い髪の人はほとんどおらず,後ろはバリカンで刈り上げている。ちょっとあれは困るな,と私は思っていた。何も知らずに床屋に行ってう まく説明できないと,あのような刈り上げになってしまうのでは,と不安に思っていた。英国人は刈り上げても似合うのだが,われわれ東洋人がそうすると,映 画に出てくる 「謎の東洋人」 のような,わけのわからない人相になってしまう。そこで,K さんに教えてもらった英語は,
Tidy up please. Not too short.
であった。訳すと,「こぎれいに刈ってください。あまり短くしないでください」である。実際,これだけのセンテンスで,床屋では私の英語が通じた。ま た,machine を使うか?(すなわち,バリカンを使うか)と聞いてくるので,そのときは “No, scissors please.” (いいえ,ハサミでお願いします)と答えればよい。“Yes” と答えてしまうと,バリカンで刈り上げられてしまう。もちろん,英会話の上手な人用のもっとしゃれた言い回しがあると思うが,私にはこれだけで十分だ。

以前,脚本家の三谷幸喜のエッセーを読んでいたら,彼は外国に行くとまず床屋にいって髪を切っても らうことを楽しみにしている,と書いてあった。彼の語学力について何も知らないが,とても度胸のある人だな,と思ったものだ。私など,ケンブリッジの床屋 に行くだけで,1ヶ月以上悩んでしまった。

日本の床屋だと,髪の毛を切るだけでなく,髭をそったり,頭を洗ったり,肩をもんだり,耳掃除をしたり,と至れり尽くせりのところが多いが,英国では何もいわなければ(すなわちデフォルトは),髪を切るだけである。そして,ほとんどの人は髪を切るだけである。頭を洗っている人はほとんど見たことがない。また,日本だと首の周りにタオルを巻いて,その上からビニールのカバーを身につけるので,髪の毛が首 から入ってくることはほとんどないが,こちらはおおざっぱで,ただビニールのカバーを首に巻くだけなので,床屋に行った後は上半身が髪の毛で痒くてたまらなくなる。髪の毛を切ったら家に帰って,シャワーを浴びなければならない。

私は,英国人は日本人ほど手先が器用ではないという偏見をもっていた。英国人に床屋のような繊細な 技術を期待できるだろうかと思っていた(たぶんこれは私だけの偏見だろう)。しかし,Peppy’s の従業員同士(若い女の子,ベテランのおばさん,若い 男性,そして40歳くらいの男性の4人)の会話を聞いていると,イタリア語(らしきもの)で会話していた。イタリア人の床屋なら安心だ。映画 「ローマの休 日」 でもイタリア人の美容師がいい味を出していた。

私は若い女の子に髪の毛を切ってもらった。予想していたより,はるかに上手だった。所要時間は約 20分で,料金は11ポンド50ペンスだった。ただし,床屋ではTIPをあげる習慣があるので,1ポンド50ペンスのTIPをつけて計13ポンド(約 2600円)支払った。日本では最近安い床屋ができているので,一概に比較できないが,物価の高いケンブリッジとしてはまずまずの値段だろう。

10歳の長男も Peppy’s のお世話になっている。ベテランのおばさんがとても上手で,子供の頭をはさみできれいに仕上げてくれる。ただし,日本のような子供料金は存在せず,私と同じ13ポンドを支払っている。

<<写真>> 11月中旬を過ぎると,街はクリスマスの準備に入る:近所のショッピングセンター Grafton Centreのイベント会場で 

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