日本に住んでいるときには,家族全員でミュージカルや演劇を見る機会はほとんどなかった(これは私が出不精であることによるものだが)。ケンブリッジでは,家からもそれほど遠くない距離に劇場がたくさんあり,私自身も時間的にゆとりをもった生活を送ることができているので,ときどき Corn Exchange と呼ばれる City Centre にある劇場に足を運ぶようになった。この劇場は,9月に行われたわれわれの分野の国際会議である “European Control Conference” (ヨーロッパ制御会議) の開会式が開かれたところでもある。

11月にはモスクワ・シティ・バレエ団の「眠れる森の美女 (Sleeping Beauty)」 を観た。3時間にも及ぶ大作で,最初は楽しそうに見ていた子供たちも最後には退屈してしまったが,バレエに興味をもっている6歳の娘に本物のバレエを見せることができて良かったと思っている。

家内が英会話スクールの先生から教えてもらって始めて知ったことなのだが,クリスマスシーズンには見るおとぎ芝居のことを英国では “Pantomime” と言うそうである。12月から1月にかけての今年の Corn Exchange でのパントマイムの出し物は,「オズの魔法使い」 であった。パントマイムでは男優がたとえばシンデレラの継母のような意地悪な役を女装して演ずるという伝統もあるそうだ。ただし,オズの魔法使いの魔女は,女優が演じていた。パントマイムといえば,台詞を言わずにもっぱら身振りと表情で演ずる演劇で,日本では,ときどきTVチャンピオンの司会をしている中村ゆうじしかパントマイムをする人は思い浮かばなかったので,英国におけるクリスマスシーズンのパントマイムの意味は新鮮だった。わが家では12月22日にオズの魔法使いを見に行った。ちなみに大人2人,子供2人の Family ticket の値段は£60(約12,000円)だった。学校が冬休みに入っているので,会場は親子連れでいっぱいだった。また,お年寄りの団体も見かけた。クリスマスに家族でパントマイムを見るというのは,英国での季節の風物詩なのだろう。

オズの魔法使いはわが家の子供たちが大好きな映画の1つであり,ジュディ・ガーランド主演の映画の DVDを 何度も見ているので,ストーリーは完璧に把握していた。したがって,英語の台詞の細かな意味はわからなくても十分に楽しめた。また,当然のことだろうが,出演者の歌が非常にうまく, 2時間強の間,退屈することがなかった。久しぶりに本物の舞台を見て,私はなぜか昔 TBS で土曜の夜8時に放送していたドリフターズの 「8時だよ!全員集合」 を思い出してしまった。あれは素晴らしいライブだった。

私は TV 世代の真っ只中で育ってきたので,家で TV を見ることが多かった。ケンブリッジのように,近くに芝居小屋がたくさんあり,よい出し物を見ることができる環境だったら違ったかもしれないが,残念ながらそうではなかった。逆に言えば,非常に文化的な都市であるケンブリッジに住んでいる現在のほうが,普通ではないのだと思う。

いまの子供たちは,TV ではなく TV ゲームで育ってきている。何が本物(現実)で,何が仮想なのか,判断できないまま,大人になってしまう危険性をはらんだ世代だ。ヴァーチャル・リアリティとカタカナで呼ばれる「仮想現実」が重要な局面はたくさんある。しかし,ヴァーチャル(仮想)はリアリティ(現実)を知っていて始めて意味を成すものだ。

芝居は TV で観るものではなく劇場で見るものだ。野球やフットボールの TV 観戦もよいが,やはりスタジアムに足を運んで,ライブで見る感動には及ばない。子供たちには本物を見せてやりたい。

英国では,クリスマス当日の25日は鉄道,バスなどの公共機関がすべて終日運休して,街は閑散としていた。続く26日も Boxing day という祝日なので,ほとんどの店は閉まっていた。ちょっと前の日本の正月三が日のような静けさだった。しかし,日本では最近は元旦から営業しているスーパーマーケットも増えてきた。便利になることはありがたいことだが,一方で季節感がどんどん失われ,いつも忙しくしている。正月3が日くらい皆で休んで,たまには日本全体が不便な生活をしてみたらどうだろうか。不便な暮らしを体験していれば,便利のありがたさをより強く実感できる。いつも美味しいものを食べ続けていると,どんなに美味しいものを前にしても感動しなくなる。日本は,美味しいものを四六時中食べ続けているような気がする。