DSC08695 (1024x768)廣田幸嗣氏からエッセイ[15] を送っていただきました。

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電気学会には歴史的な業績に対する顕彰制度がある。その多くは所属団体が学会に申請し、毎年数件が登録されている。屋井先蔵の場合は、戦後のドサクサで会社が倒産し、関係者も業界を去ったため,電池業界の一部を除き業績が知られていなかった。偶々電池の発展史を調べていたときその偉業を知り,推薦書を書いて出したところ受理された。今年,日本電池工業会と東京理科大学が電気学会から顕彰された。

屋井先蔵は1863年に,越後長岡藩の下級武士の長男として生まれた。戊辰戦争に負けた長岡市は、当時焼け野原になっていたが,有名な米百俵の教育風土の中で、先蔵は貧しくても青雲の夢を持って幼児期を過ごしている。

1875年、13才のときに、9日間歩き通して東京へ出て,神田の時計店で丁稚奉公することになる。時計は文明開花のシンボルだった。過労で病を得て地元に戻り,7年後に再び東京へ出た先蔵は、郷土出身の代議士宅に書生として住み込み,東京物理学校(今の東京理科大)の実験所付属の職工として働きながら、時計の試作に没頭する。困ったときには,東大に行って実験器具を借りたり,アドバイスをもらったりしていた。

1885年、23才のときに電池で正確に動く「連続電気時計」の開発に成功し,特許が1891年に公告となる。これはわが国で初の電気分野の特許である。しかし、使用した小型電池は湿式電池で、液体がこぼれるなど扱いにくく,冬場は凍結して使えないなどの欠点もあり、ほとんど売れなかった。そこで1885年、浅草七軒町の長屋に、屋井乾電池合資会社を設立して、本格的に「乾電池」の開発に取り掛かる。工学の基礎がない先蔵にとって、開
発は容易ではなかった。電極は何にするか?実験に実験を重ねてたどり着いたのが、亜鉛の筒のマイナス極と、炭素棒によるプラス極であった。

最大の難関は、正極の炭素棒の微小な孔に電解液が染み込み電池が腐食することだった。この問題は、3年近く先蔵を悩ませたが、東京物理学校や東京帝国大学の先生方の協力も得て(わが国初の産学共同とされる)1887年,24歳になって、世界初の実用乾電池を開発した。しかし、電池の注文はサッパリ無く清貧の日々を過ごして特許を出願できなかった。1893年、妻の金策により乾電池の特許を出願取得する。ドイツのガスナー、デンマークのヘレンセンが1888年に乾電池の特許を出願していたが、屋井先蔵も先覚者の一人であることは、世界でも広く認知されている。

先蔵は1910年、屋井乾電池株式会社を設立して、乾電池の本格量産にとりかかった。筒型の金属ケースを使うと言う、いまの乾電池の基本スタイルを確立し、屋井は「乾電池王」とまで呼ばれた。

日清日露戦争を勝利に導くのに、小型で寒冷地でも凍結しない屋井乾電池が大いに威力を発揮した。「満州での勝利は,ひとえに屋井の乾電池によるもの」だと号外で報道された。中国やロシアが使っていた電池は、寒冷地では電解液が凍結して無線が打てなかった。情報戦で決定的な差と認知され,屋井乾電池は陸軍で全面採用となり、軍用大型乾電池の覇者として、会社は発展する。

先蔵は1927年、65歳で永眠する。その後、屋井の会社は、第二次大戦終了により軍需が途絶え、1950年に倒産するが,松下幸之助などの事業家たちが,民生事業として受け継ぎ、いまの「電池王国日本」の礎を築いている。

明治という時代に、越後の一青年が困窮の中で苦しみながらもチャレンジ精神を忘れず、世界で最初に乾電池を完成させたという歴史的事実は、われわれに勇気を与えてくれる。

研究開発は,ボクシングのようなハングリースポーツだとよく言われる。いま日本の産業界は,「亀田3兄弟」のようなstay hungryな人財を多く必要としている。

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