早速,廣田さんからエッセイを送っていただきました。今日の食事会のときにお話しされていたことを文章化していただきました。

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憲法記念日が近づくと現行憲法を変更すべきか否か,変更するなら何条を変えるか,あるいは加憲するかの論議が賑やかに交わされる。しかし立憲主義(Constitutionalism)の中核ともいえる国家像,つまり改憲や加憲と言う手段論以前に,どのような国にしたいのかの論議が十分に咀嚼されていないように思う。

高校時代の日本史の教科書を読み返してみると,日本人はみずから国家のグランドデザインが描けるのか? 少々不安になってくる。

飛鳥時代の最大のクーデタ,大化の改新(乙巳の変)では中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺したが,明快な国家像を提示できず群臣の支持を得られなかった。そこで内政の混乱収拾よりも百済救援を優先させ権力集中を図るが,白村江の戦いで大敗する。唐新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は対馬や北部九州の大宰府に水城(みずき)を設け,難波宮近傍に兵庫(つわものやぐら)県を置いて防衛網を強化し,さらに都を難波から内陸の近江京へ移した。

結局は唐との友好関係が樹立され唐人の指導で律令国家の建設が急速に進み倭国は日本へ国号を変える。要するにグランドデザインの直輸入で古代国家が生まれたのである。借り物だけに公地公民などの律令制の根幹はすぐに空洞化するが,現実現状に合わせた設計変更は無く,幕末まで日本は表面的には律令国家モデルのままであった。

徳川幕府を倒した明治維新でも,どのような政治体制にすべきかのグランドデザインが無く内政の混乱から逃れる手段として征韓論が生まれる。岩倉具視の欧米使節団という「国家体制調査団」が組織され,普仏戦争に勝利した直後のプロシアで日本が取り入れるべき国家体制を見出す。直輸入の形で明治国家が生まれ,征韓論は退けられる。

大恐慌による不況から昭和維新が叫ばれるが現実の処方箋を欠く神国論はやがて太平洋戦争へ至る。終戦後アメリカにより平和国家像がグランドデザインとして提示され,それまで鬼畜米英と叫んでいた日本人にあっけなく受容されて,今日に至る。

以上のように日本史の三大事件を見ると日本人はグランドデザイン能力に欠けるのではないかとの自戒的教訓が生まれる。古代中国人は日本人を倭人と言った。倭とは人偏に委任状の委と書くと喝破したのは故司馬遼太郎氏であった。国家体制に限らず技術論や経済論でも他人に委任せず,大いに大構想を論議して倭人DNAから脱却しようではないか。